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きまぐれおじさん

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Posted byきまぐれおじさん

博多山笠が始まりました

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博多山笠が始まりました。
7月1日から飾り山笠が博多の街を飾ります。
今年は全部の飾り山を回ろうと思います。
全部で13か所あります。
今日は5か所回りましたが暑くて暑くて大変でした。
山笠①
天神で電車を降りて天神にある山を見て薬院(渡辺通)そしてバスで博多駅まで行きました。
次回は博多中心に回ろうと思います。
これから各山のいわれをホームページに載っているものをコピーしました。
山笠②
武士心薫立花城
(もののふのこころはかおるたちばなじょう)
所領没収から苦節20年、筑後柳河(川)藩主に返り咲いた稀有な勇将・立花宗茂。『義』の信念のもとに戦い、「最強の武将」とも称されるようになる宗茂の若き日の姿だ。 豊臣秀吉が『天下統一』を急いでいた天正14年(1586)年、当時、大友氏(豊後)の配下にあった宗茂は博多を見下ろす立花城(福岡市東区・新宮町・久山町)で、九州に覇を立てんと北上した島津四万の軍勢に包囲されていた。対する立花軍は二千。宗茂は開城の勧告に「いやしくも義に背いて生きんよりは、寧ろ死するにしかず」と覚悟。同時に秀吉の援軍を待つ間、重臣・内田鎮家を使者として派遣し、時間を稼いだ。
[人形師:亀田均]
山笠③
巴御前
(ともえごぜん)
巴御前は源義仲の平氏討伐に従軍した平安時代末期の女武者で、都落ちした主人義仲の最後の合戦まで生き残るも、末期までの同道を辞し生き延びるよう義仲から諭される。最後の奉公と敵将御田八郎師重と馬上で組み合い、最後には首をへし切り木曽に落ちたとされる。謡曲「巴」では義仲終焉の地である粟津ヶ原に幽霊となった巴が現れ、居合わせた僧侶に義仲の供養を請う。演目の最後に巴は義仲から末期に授かった守り刀と小袖を抱き消える姿が描かれ、激動の時代に翻弄されながらも思慕を貫いた女性として描かれている。
[人形師:置鮎正弘]
山笠④
黒田関ヶ原之陣
(くろだせきがはらのじん)
関ヶ原の戦いで東軍についた黒田長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家を事前に調略、寝返りに導いた功績で知られていますが、本番の戦闘でも猛将ぶりを発揮。西軍大将の石田三成の本陣を攻めるなど大活躍します。徳川家康に「一番の功労者」と認められた長政は、秀秋の所領だった筑前国に52万石の大封を得て、福岡藩の初代藩主となります。
[人形師:中村信喬]
山笠⑤
八俣遠呂智
(やまたのおろち)
出雲の国にやってきた素戔嗚尊(すさのおのみこと)は毎年村を襲う、一つの胴体に八つの頭と八つの尾を持つ八岐大蛇を八岐大蛇を強い酒で眠らせ退治した。 その腹の中から出て来た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を姉の天照大神に献上した。
[人形師:中野親一]
山笠⑥
男西郷どん
(おとこせごどん)
「西郷隆盛」(吉之助)(さいごう・たかもりへきちのすけ〉1828~1877)西郷隆盛は1828年(文政10年)薩摩・島津家の下級武士の家に生まれた。当時の薩摩藩には、「郷中教育」と呼ばれる独特特な教育制度がありました。「方限」とよばれる居所ごとに年長者が年少者の面倒を見る倫理観に優れ、実践に裏付けされたもので、薩摩隼人の教育の根幹を成していました。このような独自な教育制度のもと、西郷は指導者としての基礎を築いていきます。近隣には後に明治の元勲となる2歳年下の大久保利通(庄助)も生まれています。1844年(弘化元年)、西郷16歳で藩の郡方の補佐を拝命。藩内の田畑の実際の石高を計るうちに農民の窮状目の当たりにします。藩のお家騒動に巻きこまれたこともあり、藩政への上申をきっかけに、28代藩主・島津斉彬にその才を見出されます。その後、庭方役として仕えるようになり、幕末の江戸、京都に活躍の場を広げます。 やがて、命により斉彬の養女・篤姫を徳川家13代将軍・家定に嫁がせるべく、島津家と縁の深い天皇家縁戚の五摂家筆頭近衛家の支援を得ながら、これを成し遂げます。篤姫の工作で14代将軍に一橋慶喜を擁立する下準備でした。しかし、この件は紀州徳川家の慶福(家茂)擁立に執念を燃やす南紀派(井伊直弼派)の勝利となりました。巻き返しを図るべく上洛を計画していた斉彬がその直前に急死、絶望感に苛れます。薩摩の藩主は、斉彬の遺言により養嗣子(弟・久光の子)忠義(茂久)に決まります。将軍決定で勢いに乗る幕府の尊王攘夷派への操作・探索が厳しくなると、西郷は斉彬亡き後の心の支えでもあった、尊皇派の僧・月照と江湾(鹿児島湾)に身を投げます。西郷は奇跡的にに蘇生しましたが、月照は絶命します。藩は幕府の追求を逃れるため、西郷に奄美大島に渡り潜居するよう命じます。西郷郷31歳。ここから受難の日々が始まります。 奄美大島では、藩の過酷な農民搾取に心を痛め、古からの解放を行うなど、島民からも慕われました。1862年(文久2年)、再び藩に呼び戻され、藩主の後見である父・久光の上洛に際し奔走することになります。しかし、久光から、西郷自身が攘夷の旗を立てて天皇を擁立しようとする過激派に担がれるのを恐れて譴責され、お互いに心が通わぬまま沖永良部島に流されることになりました。2度目の島送りの間に、「生麦事件」。これに端を発した「薩英戦争」と薩摩藩が英国と関係した国際事件が立て続けに起こります。西郷の帰藩を頑なに拒絶していた藩父・久光も、このままでは時代の流れに取り残されると悟り、西郷の復帰を認めます。1864年(元治元年)のことでした。 天皇家と幕府の融和にに尽力した翌年、西郷は、岩山糸(糸子)を嫁に迎えます。再婚同士でしたが、柔らかく貧乏を苦にせず、西郷の一番の理解者となりました。二人とも遠慮せずに正しいと思うことを率直に述べる性格で、そこがふたりを引き寄せたといえるかもしれません。西郷亡き後も西南戦争で犠牲者になった家族を慰問し、生涯にわたり気にかけていたと伝えられます。西郷は、自分が思う世の中をつくるため東奔西走するなかで、家族を守る糸に全幅の信頼を寄せながら、盟友・大久保 通とともに稀代の革命家として、新たな国づくりという大きな山を駆け上っていったのです。
[人形師:生野四郎]

今年は、飾り山全部回るぞと決意しています。
7月15日午前4:59が追い山です。
暑いけど初めて頑張ります
最終更新日2018-07-01
Posted byきまぐれおじさん

Comments - 2

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thumoria  

「飾り山」って言うんですね。
こちらの「山車(だし)」と同じですかね~
暑いですから水分補給しながら
まわってくださいね^^

2018/07/01 (Sun) 20:29 | EDIT | REPLY |   
きまぐれおじさん  
thumoriaさんへ

山笠には舁き山(7流れ)と飾り山(13山笠)があります。
舁き山(かきやま)は実際に街の中を舁いて櫛田神社に奉納します。
水分を十分取って達成したいと思います。

2018/07/02 (Mon) 17:40 | EDIT | REPLY |   

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